稽古場のピアノ バレエピアニストの世界 WEBサイト
ご使用中のブラウザのJavaScriptをONの状態に設定してください。
稽古場のピアノ
ブログ稽古場エッセイピアノ教室リサイタルお役立ち情報

プロフィールリンクお問い合わせホーム

ホーム > 稽古場エッセイ > 過去の記事リスト > 過去の記事

稽古場エッセイ 過去の記事過去の記事リストへ戻る

34 下地

子供の頃、ほんの短い間なのですが、電子オルガンを習っていたことがありました。一般的に知られた商品名で言うならヤマハのエレクトーン、カワイのドリマトーン、ビクターならビクトロン、テクニクスのテクニトーン・・・。
夢中でピアノに向かう前のことです。私が音楽のレッスンを受け始めた音楽教室のグループレッスンではオルガンを使っていたので、グループのカリキュラム終了後個人レッスンでオルガン専攻科のレッスンを受けコラールなどを弾き、そしてそのまま電子オルガンを習い始めたのです。
とは言っても、よくよく思い出したらそういえば少しは習ったと言う程度のもの。1年もやっていたでしょうか。今のような体系的にしっかりしたメソッドがあったようにも思えない頃です。
私が習い始めた当時はちょうどその楽器が一般に出回り始めたかどうかという頃だったのでしょうか、周囲で習ってる友人などはいなかったような記憶があります。やはり習うなら圧倒的にピアノ。庶民の憧れる「文化的生活」の実現にはピアノが欠かせなかった時代でしたから。

そう言う状況ではほんの少し習っただけといっても、これが案外重宝される特殊技能の持ち主と言えたのか、小学校4年生を終える頃、先輩たちの卒業式のBGMをまかされるとういう今思えば大役をおおせつかうことがありました。30年程も昔の地方の小学校で卒業式に生徒の演奏する電子オルガンのBGMを使うという先生の感覚には、当時としては相当新しものがあったのではないでしょうか。私を抜擢し、まかせてくださった小学校の音楽の先生には今更ながら感謝の思いが湧いてきます。

春先の寒い講堂の隅で、卒業生の名前が読み上げられ、一人ずつ壇上で卒業証書が渡されるその厳粛な空気の場で静かに音楽が流れているというその音楽担当です。選曲は確か先生からも楽譜が渡された記憶がありますが、自分の習っていた教則本や、曲集も使って次々と何曲も何曲も弾いていった・・・と、今となっては格好良くこなしたであろう自分のみが記憶の中に出来上がっているのですが。

埴生の宿、峠の我が家、雪山讃歌、スワニー河、夢見る人、真珠採りのタンゴ、ダニューブ川の漣、、モスクワの夜は更けて・・・・・と弾いたであろう曲を思い出せるまま書いてみましたが、なにやら、ああ懐かしの麗しきメロディーとでも言う風情。時代です。

小学生で静かなるBGM奏者デビューを果たした(ギャランティはありません)わけですが、その後中学生になると人の集まった折には家のピアノで映画音楽など弾いてはおこずかいを貰い(やれやれ・・・・)大学祭やちょっとしたコンパのBGMではやはり人知れずピアノを弾き、と正統派ピアニストとはどう考えても一味違う道を歩むのを自ら楽しんでいたようです。

思えば、多少の初見力があったこと、耳で聴いてなんとなく思いつきで伴奏をつけては弾くことが出来たこと、場の状況を見ながら弾くことが出来たこと・・・そうなんですね、バレエのバとピアノのピが頭の中で結びつくことはゆめゆめ無かったのですが、今にして思えば確かにバレエのピアノを弾くにはうってつけの人材ではあったわけです。めぐりめぐってお声をかけていただいた時ほぼ二つ返事の状態だったのはそういった下地が自分の中にちゃんと備わっていたということなのでしょう。

そういった素養とでもいったものの上に遅まきながらではありましたが、ピアノのレッスンをしっかり受け、楽譜を深く読む姿勢も身に付け、テクニックの安定をはかり、音楽的な土台をさらに時間をかけて補強し・・。幅広く自分の好きな音楽に関わっていけることはやはり幸せです。

ページトップへもどる


Copyright (C) 2001-2009 Hisari-Isoyama. All Rights Reserved.