29 かぼちゃとピアノ
ピアノを弾く者にとって言うまでもなく手は体の中でも特に大切な部分です。練習の負担から生じる腱鞘炎に気をつける他、外からの刺激による怪我にも当然気をつけます。それほど神経質にならなくても頭のどこかにピアノを弾くことを置いていれば、ヒヤッとする瞬間もとっさに手をかばうものです。
バスケットボールやバレーボールのような突き指の心配のあるスポーツはもとより、ボーリングも指を使うし、テニスも腕が張ったりするし、腕がへらへら笑うような重い荷物も持ちたくないし、まあせいぜいビール瓶一本程度まで、一升瓶はちょっと・・・・いえ・・・とまあ特に試験や演奏会前には多少なりとも気を使うものです。
そんなことぜーんぜんお構いなしさ、いちいち構ってらんないよ、という猛者も中にはいるかもしれませんが、何千万円の保険がかかってる手ではなくても、それなり責任ある演奏の場を常時持っているなら手の怪我は極力避けなければならないものです。この場合、弾けなくなるということは何より本人にとっては「ビンボー暇有り生活」に突入という悲しい結末を意味しますし・・。
ですから意識して避けられるものはやはり注意して避けます。でも少々危ないなと感じられながらも避けられないものが日常生活の中ではやはりあるものです。
そのひとつが料理。包丁を持つということ。気をつけてはいても、包丁を使ってヒヤリとすることは日々台所を預かる人ならどなたでも多かれ少なかれ経験があることでしょう。
さて、まな板の上でキュウリを切る、大根の皮をむく、ごぼうや人参をささがきにする、魚をさばく・・・包丁を使っての動作も色々あるものですが、演奏会前など私が徹底して避けているのがこれ、「かぼちゃを切る」です。
かぼちゃというと手にとってまず感じるのがごつごつとした表面を持つ硬い皮。手の上でぽんぽんと軽く投げ上げてみるとずしりと手ごたえがあるものです。そして又その手ごたえがあるものほど美味しいものです。まるごとひとつ手にとって眺めるとその独特の形はなかなかに見ごたえもあるものです。
ああシンデレラの馬車になりそうな大きなかぼちゃ、美味しそう、と子供の頭ほどのかぼちゃまるごと一個を切ろうとしていざまな板の上に乗せます。するとこれが丸みを帯びたその形や表面のぼこぼこや根っこの部分が邪魔をするせいで少々ぐらつきます。まな板の上にすとんと落ち着いておとなしく乗っていてはくれないものです。
そのうえ分厚い皮。その皮に包丁の刃先を入れるのはトマトやたまねぎを切るのとはわけが違います。まず表面の筋に沿って刃先を皮にくい込ませますが、その不安定なかぼちゃを片手で押さえながらぐいっとそれ相当の力を込めなければなりません。
そしてようやく刃が入ったかと思うと黄色い実の部分は柔らかく、包丁を持つ手ごたえは急にふっと軽くなり、皮を通り越すために込められた力はおもいきりすかしをくらってしまいます。
そうこうするうちに種の部分に引っかかりなんとかそこをかいくぐってクリアしたかと思うと当然のことながら再び分厚い皮にぶち当たり・・・・。
とまあ、怪我をしないようにまるごと一個のかぼちゃを縦半分に切ろうとするのは実に骨が折れる仕事なのです。
かぼちゃを食べるのはそれはもう、申すまでもなく幸せなことです。お総菜として甘じょっぱく煮たり、あずきと一緒にいとこ煮にしたり、天ぷらにしたり、ポテトサラダのようにたまねぎやきゅうりと一緒にマヨネーズであえたり、生クリームをたっぷり入れてポタージュスープにしたり。特に女性にはかぼちゃのファンは多いものでしょう。でもやはり、ピアノを前にしてはかぼちゃ料理に挑むのは危険を孕んだ行為。うかつに手を出せない野菜です。
実はこんな風にかぼちゃを演奏前の天敵のごとく仕立て上げてしまったのにはわけがあります。かれこれ15年ほどのおつきあいになる友人が演奏会前にかぼちゃで手を怪我してしまったのです。道産子の彼女、親戚から届いた大きなかぼちゃに慣れたものよと、大胆にも勢いよくぐさりと包丁を入れ、一気に切ってしまおうと・・。そしてあっと気がついた時にはかぼちゃと共に切ってしまったのです、自分の大切な指を・・・。
「だから演奏会前にかぼちゃ切ったらだめさー。」
幸い最悪の事態は避けられ、彼女は今もこつこつとピアノの勉強をし続け、伴奏の仕事などで活動しています。あっけらかんと話すその失敗談を聞かされて以来、自分への警告の意味をこめてコンサート前はかぼちゃに包丁を入れるのは御法度に。
美味しいかぼちゃも演奏の場を幻と消してしまうまさにシンデレラの馬車。
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