12 寝る子は育つ
さて、前回「熟成」の続き。
そうして選曲の段階で吟味され、ようやく届いた楽譜を開き、譜読みをし、いわゆる「手につく」まで・・・それはそれで、やはりそれなりの時間が必要です。バレエピアニストのように多くの曲をこなすには初見という、全く知らない曲でも大まかな性質を掴んで、楽譜を見ながらぱっと弾き通す力が必要です。が、そういう弾き方とはちょっと異なるものを求めていく時間。質の高さを求め、内容に踏み込んで行く段階にまで進んでいきます。
初対面のご挨拶も過ぎ、アバタもエクボの関係からもう少し互いに踏み込んで、恋人同士ならちょっと気まずい喧嘩も、はたまた場合によってはもうイヤッ!という大喧嘩もあり、それでいて相手の非も許して受け入れられる関係に進んでいく時間でしょうか。
この段階から以後、ピアノを弾かれる方それぞれの企業秘密、門外不出持ち出し禁止のハンコがずしりと押されている極秘の作業が増していくでしょう。紙の上に音符で表されただけの曲(ピアノ曲は一人でなんと複雑な多くの音、多くの情報を処理しなければならないか!)を耳で聴ける生きた音楽に立ち上がらせる時間です。
例えば、お馴染みのショパンのロ短調のワルツを弾くとします。譜面台に楽譜を立て、最初の8小節までたどり着くのは中学、高校とピアノを弾かれた方なら、そう難しくはないでしょう。それこそ初見で弾けちゃうでしょう。小学生でも楽譜の音どおりには弾けます。大人の初心者の方も充分挑戦可能な譜面です。
さて実際弾いてみると・・・このシンプルな譜面に何が書かれているでしょう?改めてよーく見てみましょう。
(Salabert版より)
VALSE、Moderate Op.69bQ・・線が5本の線にト音記号、ヘ音記号、♯が二つ・・いや、両手合わせたら4つ?(!)・・4分の3拍子で・・右手最初の音はファ・・これはシャープがついて黒鍵を弾く・・その音の上にアクセントのしるし・・タイを表す線と、小さな動機とよばれるフレーズを表すスラーが・・・音の強弱を表すPの記号、デクレッシェンド、ペダル、指番号・・・・・。
これ、ほんの2小節にも満たない程度の話です。弾いてしまえば僅か5秒足らずの部分をざっと見て、目に飛び込んでくる表面的な情報を順に読み上げてみても少なくともこれだけあるのです。
・・と書いてるうちに、いやはや1曲弾くというのは一人で2階建ての家を建てるような大仕事だぞ、と眩暈がして気が遠くなりそうになって、この先の話は全部はしょってしまいたくなってきました。お読みくださる方もえんえんこれを書かれたらたまりませんね。料理のレシピを「スープ750CC、塩小さじすりきり1杯、黒胡椒、月桂樹の葉、・・」と延々読んでるだけなんて・・。
おんなじレシピを読んでちゃんと手順を守って作っても出来上がりはひとそれぞれ微妙に違います。そして、ベテラン料理人、ベテラン主婦なら同じレシピに一味、その人ならではの企業秘密の一手を加え、他人には決して真似の出来ない絶妙な味わいを生み出すことでしょう。
先ほど並べ立てた語句は楽譜に書かれたごく表面的なことに過ぎないのです。ピアノに専門的に携わってる方ならこのような基本情報はほぼ瞬時に了解します。そして音に表すでしょう。
でも、このショパンの19歳の作品、端正に書かれたロ短調のワルツの最初のファの♯のこのひとつの音、たったひとつのこれをどんな味付けで弾く?どんな色で弾く?ショパンはこの音にどんな心情を込めたの?いや、音の大きさを数値で言ったら何ホンだ?・・・じゃあどうやったらその色が出せる?指はどういう風に使う?立てて指先を入る?おもいっきり寝せて指の腹を使う?息を吸ってから弾く?腕は?・・・楽器はどんな音色のピアノが合ってる?・・・。
ショパンのワルツを例に挙げましたが、そういったその人独自の秘儀秘伝に到達する時間がどうしても必要で、自分に妥協を許せなかった芸術家の代表が、亡き巨匠ピアニスト、ホロビッツなのでしょう。既にキャリアがありながら何年も華やかなステージでの演奏から退いて、自分の演奏を追求し続けた音楽家です。
そうした特別な時間を持たないまでも、耳をすまし、目をしっかと開いて楽譜に向き合うことで音へのこだわりは限りなく膨らみ、そのこだわりは充実した音楽に結びつくことでしょう。そして又美味しいシチューがそうであるように丁寧に手をかけて仕上げた曲をさらに寝かせ、又引っ張り出しては弾いてみることで新鮮でかつ一層深みのある味に近づいていけることでしょう。
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